軍艦島の問題-1



2023.06.19-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20230619-3WM4WSBZPVI63CFX6YVVWO6Z3Q/
NHKの軍艦島映像、フィルムは戦後製

  昭和30年に長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)を取りあげたNHK番組「緑なき島」を巡り、NHK幹部が19日の自民党会合で、坑内とされる映像の撮影に使われたフィルムは放送と同じ年の30年製だったと説明したことが分かった。坑内映像は韓国のテレビ局などが、朝鮮半島出身者が戦時中に軍艦島で強制労働させられた証拠の一つとして使用している。終戦から10年後に撮影された映像だと裏付けられたことで、韓国側の主張の一端が崩れることとなる。

  複数の関係者が明らかにした。19日に開かれた自民の外交部会と日本の名誉と信頼を確立するための特命委員会の合同会議に、NHKの山名啓雄専務理事が出席し、明らかにした。
  番組の坑内映像には、狭い坑内でふんどし姿の炭鉱労働者が採炭する光景が映っており、韓国メディアが軍艦島を「朝鮮人強制連行」と関連づけて映像を使用するケースが相次いでいる。韓国・釜山の「国立日帝強制動員歴史館」でも使用が確認されている。
  NHK幹部の国会答弁などによれば、NHKは平成22年に緑なき島の映像を韓国の公営放送KBSに提供し、その後、複数の韓国メディアなどに無断で使用されている状況だという。
  19日の会合後、特命委の委員長を務める有村治子参院議員は記者団に「放送されたフィルムについてNHKから『戦後作られたものだ』と確認を取った」と説明。「韓国の複数のメディアで目的に沿わない使われ方をされているのは、日本の国益や歴史認識に関わってくる」とも述べた。
  坑内映像は端島炭坑の昭和30年当時の実態ともかけ離れた内容とされ、元島民らが軍艦島の外部で撮影されたものだと訴えている。



2021.07.19-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20210719-KPX6ZMVD5FINZFTRSETJP7H4SM/
ユネスコと軍艦島 史実歪める決議の撤回を

  歴史の歪曲は許されない。日本を貶(おとし)める不当な要求に、政府は毅然と対応すべきである国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、日本の世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」について「強い遺憾」を決議表明するという。

  遺産を構成する長崎市の端島(はしま)炭坑(通称・軍艦島)をめぐり、日本が東京に設立した「産業遺産情報センター」の展示について、徴用された朝鮮人労働者に関する表示が不十分というのが理由だ。「強制労働」させられたなどとする韓国側の求めに応じたものとみられる。

  遺憾決議こそ、遺憾極まりない言いがかりである。日本政府は強く決議の撤回を迫るべきだ。決議とともに提出される報告書は、産業遺産情報センターが、歴史を示す展示に乏しいと指摘し、韓国外務省は「日本が速やかに改善を履行するよう促す」(報道官)との見解を示している。

  ユネスコの指摘が、韓国側の史実を歪(ゆが)めた主張に沿う内容であることは明白である。国際社会における日本のイメージダウンを狙う韓国側の悪意ある政治工作が奏功したとみるべきだ。

  「明治日本の産業革命遺産」は平成27年に登録された。非西洋の国で初めて近代化を達成した日本の歩みを伝える意義がある。
  その遺産を紹介する産業遺産情報センターは、当時の炭鉱労働がどこでもそうであったように、朝鮮半島出身者が日本人労働者と同様、苛酷な労働環境にあったことをきちんと展示している。
  韓国側が主張する強制労働ではなく、賃金支払いを伴う合法的な勤労動員だ。それが歴史的な事実である。ユネスコは事実を捻(ね)じ曲げて展示せよというのか。

  世界文化遺産として登録時から韓国側は激しい反日活動を展開した。ユネスコ世界遺産委員に対し関係ない日本人労働者の写真を「強制連行された半島出身の徴用工」などとして配布したこともある。言語道断だ。

  日本政府の毅然とした姿勢があまり見えないのはどうしたことか。加藤勝信官房長官は会見で「政府が約束した(センター設置などの)措置を含めて誠実に履行してきた」と述べたが、言葉足らずだ。ユネスコのような国連機関を利用した理不尽な日本批判を封じるためにも、あらゆる機会を利用し適切な反論が欠かせない。


2021.07.218-産経新聞-https://www.sankei.com/article/20210718-E7ZI7MUUNBJWJPVI2MBXVMNMEY/
韓国、軍艦島「遺憾」決議を歓迎

  世界文化遺産明治日本の産業革命遺産」を紹介する施設での端島炭坑(通称・軍艦島)に関する展示について、ユネスコが「強い遺憾」を決議文で表明する見通しとなったことを、軍艦島で朝鮮半島出身者への強制労働があったと主張してきた韓国政府やメディアは一斉に歓迎した。韓国が歴史問題で一層攻勢を仕掛けてくる可能性がある。

  決議案が12日に公開されると、韓国外務省は即座にこれを発表。外務省当局者は「国際機関の文案に『強い遺憾』という表現が入るのは極めて異例だ」とし、国際世論をめぐる成果を強調した。韓国紙、中央日報は「日本は東京五輪開幕を控え、国際的に恥をかいた」と伝えた。朝鮮日報は、文在寅(ムン・ジェイン)大統領の訪日や首脳会談をめぐる日韓の駆け引きが過熱する中、「軍艦島問題が両国の交渉にも影響する」可能性を指摘した。(ソウル 桜井紀雄)


2021.01.29-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/210129/wor2101290030-n1.html
<独自>軍艦島元島民、偽徴用工写真の韓国に反論「嘘で島おとしめるな」

  戦時中に長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)朝鮮人労働者が虐待された証拠として韓国側が無関係な写真を取り上げている問題で、元島民らが誤りを指摘する冊子を作成したことが29日、分かった。代表的な3枚の写真を掲載し、「偽写真で世界を欺き、端島をおとしめることは許されない」と訴えている。

  韓国政府や市民団体は、軍艦島などが平成27年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される前後から「朝鮮半島出身者が奴隷のように働かされていた」などと、元島民らの証言に反する主張を展開している。
  朝鮮人労働者が徴用された採炭現場の悲惨さを訴えようと、画像も活用している。狭い坑道に横たわった作業員の写真は、米ニューヨークの繁華街・タイムズスクエアに掲示された「軍艦島は地獄島」との意見広告や、釜山の「国立日帝強制動員歴史館」で朝鮮人が強制労働されたとする展示物などに使われた。
  しかし、この写真は昭和30年代に福岡県の筑豊炭田を撮影したもので、戦時中の朝鮮人労働とは無関係だと判明している。
  韓国側は、国連関係者に日本の加害性を印象付ける傷だらけの男性たちの写真を掲載した冊子も配布した。ただ、これも大正15年に旭川新聞(北海道、廃刊)が建設現場での虐待致死事件を報じた際の写真だったと判明。記事に朝鮮人をうかがわせる記述はない。
  日本の大半のメディアがこれらの問題に沈黙していることを受け、元島民らは自ら反論冊子を作ろうと決意した。高齢者となった元島民らは冊子に「デマを聞き流すことは、故郷の繁栄を築いたご先祖を汚すことで、死にきれない」とのメッセージを寄せた。軍艦島の近代化の過程などを紹介する「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)で日英韓の3カ国語で配布する。



2020.12.28-Yahoo!Japanニュース(産経新聞)-https://news.yahoo.co.jp/articles/e433671bc85e97455490e39afc5437ccc55f8f82
NHK、「別の炭鉱映像の使用、確認されず」 元軍艦島島民に

  長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)の様子を伝える昭和30年放送のNHK番組「緑なき島」をめぐり、坑内映像が実態と異なるとして元島民側が検証を求めている問題で、NHKは28日、「別の炭鉱で撮影された映像が使用されたという事実は確認されなかった」と回答した。
  回答書によれば、NHKは取材・制作に関わった部署の関係者らの聞き取りや放送以前に撮影した炭鉱映像を精査し、「緑なき島」について「当時の端島における取材に基づき、制作・放送されたものと考えている」とした。
   ただ、端島炭坑の坑内を撮影したとする根拠は示されておらず、元島民らでつくる「真実の歴史を追求する端島島民の会」は今後の対応を検討するという。


端島 (長崎県)(軍艦島)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にあるである。明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。しかし、1974年昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島の通称で知られている。「羽島」とも書いていた。日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅がある。
  2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された

  長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。

  端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1,200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
  年間平均気温は15 - 16。平均降水量は2,000ミリメートル、冬は比較的雨量が多い。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町についてのもの)。
  端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気であったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオイラクサ科)、ボタンボウフウセリ科)、ハマススキイネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている

島内の建築物
  端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである(ただし1916年の竣工時は4階建て)。
  30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためであり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった。
  高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
  どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず(1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であったが、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
  岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)建てられ、同年12月29日に初点灯したもので、正式名称は『肥前端島灯台』。灯台は、1998年12月17日に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた。

  木造鉄骨造で建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題や無人化によって維持管理がなされなくなったことから急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋計画の問題のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり劣化が進んでいる。56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていたが、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる。70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている。30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている。

1号棟(端島神社)
  1936年に建設された。小高い丘の上に1階建ての端島神社が立つ。例祭(山神祭)は毎年の4月3日ごろの日曜で、神輿の他に主婦会によるバザーなどもある。神輿が地獄段を駆け降りるところが見物。神社の下には温室がある。
30号棟(グラバーハウス)
 30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである(日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。グラバー邸トーマス・ブレーク・グラバーと関わりがあるという説があり、通称グラバーハウスと呼ばれる。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である。
  吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している。その周囲に巴形に住居が配置されている。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり、閉山は売店が入っていた。戸数は140戸、総床面積は3808.0平方メートル。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ
  25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している
日給社宅
  日給社宅とは、1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)。30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)。
23号棟(泉福寺)
  23号棟は1921年に建設された2階建て木造建築で、1階が社宅、2階が寺となっている。住職は禅宗だったが、島唯一の寺として全ての宗派を扱うため、「全宗」と称していた。島における死亡者はここに保管された後、火葬場と墓がある中ノ島に送られる。
50号棟(昭和館)
  1927年(昭和2年)に建造された、アールデコ風の映画館。社経営で2階席を完備し、平日は6時から2回上映していた。端島においては福利厚生が重視され、映画が福岡から直送されて長崎市内よりも早く封切されることから、映画を見るために島外から訪れる者もいた。演劇やコンサートなども行われた。炭鉱は24時間の3交代勤務で日中は暇な人も多いため、非常ににぎわったが、テレビの普及後は衰退し、成人向けのポルノ映画の上映が増えた後、1970年に閉館した。端島炭坑は賃金が高いこともあって、テレビなど家電製品の普及が早く、狭い部屋の中にオーディオセットを備える家すらあった。
65号棟(報国寮)
  65号棟は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもある 。コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945年(昭和20年)に完成した 。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している。
  最終的には317戸、総床面積16,895.5平方メートル(屋上・地下含む)となった。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたカンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている 。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が、地下1階には理容室がある 
  1958年(昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。
世界遺産
  端島では、明治期に作られた岸壁と海底坑道のみが、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として、世界遺産のコアゾーンに指定されている。これらの世界遺産(コアゾーン)は保護の義務が課されるが、これ以外の他の近代に建築された建築物などは世界遺産を保護する「バッファーゾーン」に指定されているため、保護の義務が課されず、多くは崩壊するままとなっている。
  なお、海底坑道は非公開であり、岸壁はコンクリートの補強で覆われているため、軍艦島では、岸壁の表面のコンクリートが崩落した部分からのみ、世界遺産である石組を見ることができる。
条例
  長崎市は「長崎市端島見学施設条例」で、端島に「長崎市端島見学施設」を設け、桟橋、見学広場、見学通路を設けると定める。また、見学施設を利用することができる者を、原則として許可事業者およびその係員ならびに許可事業者の船舶により運送された者に限定している。
  また、長崎市は「端島への立ち入りの制限に関する条例」により安全確保のため、端島の区域のうち、長崎市端島見学施設条例で定められた見学施設の区域以外の区域への立ち入りを市長が特別の理由があると認める者を除いて認めていない
交通アクセス
  端島には飛行場がなく、また別の陸地とをつなぐ橋梁もないため、端島へ至る交通機関は船舶に限られる。一般開放されている範囲では、観光ツアー船での上陸が可能。
  かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、野母商船長崎港より、伊王島高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。距離は長崎港から約20キロメートル。
  これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、島の周囲を巡る遊覧船長崎港などから運航されるようになった。上陸は禁止されていたが、それでも上陸を試みる無法者は多く、その場合は海上タクシーなどが利用されていた。
  長崎市の「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」により、見学可能エリアは一部に限られるものの、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。旅行会社や海運会社が上陸ツアーを行っている。軍艦島コンシェルジュ、やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアー(長崎港→端島→長崎港)の場合、料金は(長崎市に払う施設使用料込みで)大人が4,300円。2010年8月には伊王島からの上陸ツアーも開始された。
  ただし悪天候の場合、すなわち風速が秒速5メートル超、波高が0.5メートル超、視程が500メートル以下のいずれかに該当する場合には、ドルフィン桟橋が利用できず上陸できない。そのような場合でも、欠航でなければ、施設使用料300円以外の料金の払い戻しはない(やまさ海運では1割返金)。やまさ海運の2009年度の統計によると、全体的に欠航便や上陸中止便がそれぞれ数割ほど発生しており、2月と9月はほぼ9割が上陸できているのに対し、7月の「上陸率」は僅か34%にとどまる。
世界遺産登録に関する経緯
国内における世界遺産登録の動き
  国内では民間による世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり2009年(平成21年)1月に記載された。一方、軍艦島を国の文化財に指定する動きは、2013年11月5日の参議院内閣委員会にて秋野公造参議院議員が未だ国の文化財ではなかった軍艦島に国の財政支援を求める質疑を行い、国が必要な予算の確保に努める意向を示したことで、2014年1月に長崎市は文化財指定に向けて意見具申を行い、2014年6月20日に文化審議会が軍艦島(=端島炭鉱跡)を含む三つの炭坑跡で構成される「高島炭鉱跡」を史跡に指定するよう文部科学大臣に答申して、2014年10月6日に軍艦島は国史跡として文化財指定された。これで軍艦島が世界遺産登録へ向けて、非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値づけが明確になった。
韓国による世界遺産登録反対運動
  2015年5月5日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関「イコモス」(国際記念物遺跡会議)が端島を含む幕末から明治の重工業施設を中心とした「明治日本の産業革命遺産」の全23施設を世界文化遺産に登録するよう勧告すると、韓国は「かつて日本が軍艦島で朝鮮人を強制労働させた過去」を理由に官民を挙げて、端島の世界文化遺産登録を阻止する運動を開始した
  2015年5月11日に韓国・ソウルで開催された日韓議員連盟の合同幹事会で「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録に韓国政府が反対していることについて、政治問題化しないよう韓国側に理解を求め、22日に継続して協議することを確認したが、翌日、韓国国会は本会議で、日本政府が「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録を推進していることを糾弾する決議を可決、採択した。2015年5月20日、韓国大統領の朴槿恵大統領は、ユネスコのボコバ事務局長と会談し、「歴史に背を向けたままの世界遺産登録の申請は、国家と国家の不必要な分裂を招くことだ」と述べ、登録反対を直接伝えた。6月11日には尹炳世外交部長官が登録阻止のためユネスコ委員国を歴訪した。民間では、主要な韓国のキリスト教の指導者たちが会見を行い、日本キリスト教協議会に働きかけ「日本の帝国支配に関連する世界文化遺産を登録する日本の試みを非難する共同声明」と題した日韓の共同声明を発表
  これに対して、日本の推進派は超党派の世界遺産議連を結成して登録実現に向けて働きかけを強めるよう政府に求める決議を採択した。この問題について、日本の岸田文雄と韓国の尹炳世による外相会談が開かれ、日本が韓国の「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録することを支援する代わりに、韓国も「明治日本の産業革命遺産」の登録を支援することで合意したが、韓国の「百済歴史遺跡地区」の登録が採決された翌日、韓国は合意を反故にし、「明治日本の産業革命遺産」の登録に反対を表明。最終的に日本政府は韓国政府に譲歩し、「日本が徴用政策を実施していたことについて理解できるような措置を講じる」ことを約束し、端島の登録が採決された
  この結果について、韓国は日本が「韓国人を強制労役させた事実を認め、韓日和解ムードが形成されるきっかけになった」と評価し、両国で韓国人の被害者を慰めて、「未来志向の韓日関係」を築くように日本に求めている。
韓国による世界遺産撤回運動
  2017年7月、軍艦島の案内情報に朝鮮人強制徴用に関する記述がないことを理由に、韓国の誠信女子大学校教授の徐敬徳らにより、ユネスコに軍艦島を世界遺産撤回するように求める運動が展開されている








このTopに戻る









monomousu   もの申す
TOPにもどる
最近のニュース